第5話 朝活

 朝を告げる小鳥のさえずりで、アリエルは目を覚ました。
 まだ昇りきっていない朝日の薄明かりの中で、最初に目に入ったのは馴染みのない木目の天井。それから、麦わらの香ばしいにおいが鼻をくすぐる。
 アリエルはもそりと体を起こし、そのままぼんやりと窓から空を眺めた。空の色も、見慣れた田舎の青とはどこか違う。
 それらを眺めているうちに、アリエルはようやく家を出たという実感が湧いてきた。ここは玉都のレオナルドの薬屋で、自分はここの手伝いをすることにしたのだ。
 アリエルはベッドの隣に置かれたチェストを見た。三段の引き出しにはまだほとんど物は入っていない。その上では真新しい置き時計が、現在六時半過ぎであることを示している。
 この時計は昨日、オーガスタス公爵邸から帰る途中でレオナルドが買ってくれた物だ。木製の土台の縁に小さな花の透かし彫りがされていて、レオナルドがアリエルに薦めてくれた物だ。そして、その値段がアリエルの予想よりほんの少し高かったことに目玉が飛び出したことも思い出した。
 その時のやりとりを思い出して、アリエルは自然と頬が緩んだ。レオナルドは見た目は子供でも、しっかり中身は成人男性だった。

 昨日の出来事に耽っていたアリエルを現実に連れ戻したのは、家の外から聞こえてきたボーイソプラノの絶叫だった。
「今の、レオさんの声よね?」
 何かあったのだろうかと、アリエルは様子を覗いに窓に手をかけた。しかし、そこから見える裏庭はほんの一部で、レオナルドの姿は見えない。
 アリエルは上着を引っ掴むと裏庭に向かった。

 裏庭に出ると、レオナルドが物置の扉の前に立ち尽くしていた。扉は昨日、クララがへし折ったまま放置されている。
 さくりと青い芝を踏むアリエルの足音に気づいて、レオナルドがぎこちなく振り返った。顔が引きつっている。
「なんだ、これは」
「ごめんなさい、うっかりしていたわ。それ、昨日クララがやったの。そういえばクララは『レオが直す』って言ってたわ」
「ならそうと、せめて壊した、と報告くらいして欲しかった」
「いろいろあったから、きれいさっぱり忘れていたわ。ごめんなさい」
「いや、お前はいいよ。悪いのはクララ様だ」
 諦めたようにため息をつくと、レオナルドは開けっ放しにされた物置の中からチョークをつまみ取り出した。
「クララってお嬢様なんだろうと思ったんだけど、結構お転婆さんなのね」
 びっくりしたとアリエルが言うと、レオナルドはこめかみを押さえた。
「確かにあの方は『お嬢様』ではないが……何を考えていらっしゃるんだ」
 ぶちぶちと愚痴りながら、レオナルドは木戸だった木片をパズルのように並べていく。おおよそ元の形になったところで、丸や三角といった同じ記号を隣り合った木片にチョークでマークしていく。全てのパーツに書き終わると、レオナルドは手をかざした。
 一瞬光ったかと思うと、木片の端からにょきにょきと根とも枝とも付かない物が伸び、木戸の割れ目が塞がっていく。
 アリエルはその様子をじっと見つめ、ふと周りが気になった。
「レオさん、誰に見られているか分からない庭なんかで魔法使って、大丈夫なの?」
 この場所は確かに植物の陰にはなっているようだが、表の通りや家の間を縫う路地から見ようとすれば見えてしまうはずだ。
「大丈夫だ、この空間には魔法をかけてあるからな」
 レオナルドが指さした方を見れば、庭の隅に生えた木の幹に何か模様が刻み込んである。
「あの陣がこの庭の四隅に刻んである。その効果の中に目くらましの術も入っている。外からこの庭をただ見ただけなら、あまり手入れのされていない草木の生い茂った庭に見えるはずだ」
 昨日アリエルが表から見た時には、裏庭に生えた大木や温室に気づかなかったわけである。
「すごいわ! 他にはどんな効果があるの?」
「まずは空間の圧縮だな。家から遠ざかるほど強く圧縮してある。中の人間は自覚できないようになってるから、この裏庭に入ると奥ほど広い扇形の庭みたいに感じるが、実際はよくある矩形の庭だ。それから、風に含まれる塩を通さない魔法も込めている。大抵の植物に塩は悪影響だからな」
「そんなこともできるの!」
 アリエルはぽかんと口を開けた。
 そんな話をしているうちに、木戸の割れ目はすっかり塞がり、一枚の板になった。多少のデコボコはご愛嬌か。
 レオナルドがふーっと息を吐き出す。
「このタイプの魔法は式に練り込みさえすれば、あとは陣が自動的に発動してくれるからな。結構応用は利くぞ」
「魔法ってやっぱり便利よねえ。なんでみんな嫌うのかしら」
 アリエルは腕を組んで眉をしかめた。
 レオナルドは困ったように笑って、木戸のあちこちをこづいた。音を聞いて直し損なったところがないか確かめているようだ。
「魔法をっていうより、魔女を、だな。現に王宮では宮廷魔術師って呼び名を変えて迎え入れようなんて話もあるようだし。よし、直ったな」
 レオナルドは腕を一杯に広げて戸を抱えると、よっこいせっと持ち上げようとした。
 やおら、バランスを崩して戸ごと前につんのめった。小さな体では持ち上げるのもままならないらしい。
 レオナルドはじとっとした目で戸を睨むと、そのままの姿勢で声を絞り出した。
「アリエル、その……力仕事で、悪いんだが……戸をはめてくれ」
「わかったわ」
 乾いた木戸は思ったよりも軽く、アリエルの力でもすんなりと物置の扉にはめ込むことができた。レオナルドが持ち上げられなかったのは、重さよりむしろ大きさのせいだったようだ。
 元通りになった木戸に手をかけたレオナルドの目が、悔しそうに細められた。やはり中身が成人男性なので、忸怩たる思いがあるようだ。
「ふう……しかし、クララ様がさっさとアリエルに俺が魔女だとバラしてくれて助かったかもしれん。魔法を使うたびにコソコソするんじゃ気も休まらんし、どうせいつかバレる」
 木戸がきちんと動くことを確かめると、レオナルドは物置からじょうろを取り出した。
「さて、せっかく起きてきたんだ、水やりを手伝ってくれ。毎朝な」
「わかったわ。毎日早起きできるよう頑張る」
 アリエルはぐっと両手を拳にした。
「そこまで早起きでもないと思うけどな」
 レオナルドは少し不安げに微笑み、アリエルに大きなじょうろを手渡した。自分ももう一つ小さめのじょうろを取り出すと、そのまま茂みの方へ歩き出す。
「足下、薬草を踏まないようにな」
 畝からはみ出して地を這う植物を踏まないよう気を付けながら付いて行くと、手押しポンプ付きの井戸が大木の陰から現れた。
「ここで水汲みするのね」
「ああ、洗濯なんかもここでするから、覚えておくといい」
 レオナルドはじょうろを吐水口の下に置き、ポンプを漕いだ。透明な水が勢いよく流れ落ちる。
「地下水? そういえば、キッチンの水もそうだったかしら」
「そうだ。あのウェール山からの湧水だそうだ。これがあるから、玉都は古くから栄えていたらしい」
 アリエルはしばらく流れる水を見つめた。
「へえ、とても綺麗な水ね。それで、どの植物にどのくらいお水あげればいいの?」
「そうだな、まずはこっちの列から始めるか」
 レオナルドは井戸の一番近くの畝を指さした。



「……とまあ、毎日の手入れはこんなところだ」
 外の畑や植木鉢の列の手入れを終え、今はふたりでガラス張りの温室中の植物を世話して回っていた。
 温室の中はレオナルドの魔法で気温、湿度が高く保たれており、アリエルは着ていた上着を脱いで袖まくりまでしていた。少し動くと汗が噴き出してくる。
 アリエルは熱っぽい息を小さく吐くと地面に座り込み、近くにあった植物の大きな楕円形の葉をなでた。この植物はミューサというのだと、先ほどレオナルドから教わったばかりだ。
「外の方は知ってる薬草も結構あったから大丈夫だと思うけど、こっちは見たことない植物ばっかりだわ。手入れの仕方を間違えちゃったらごめんね」
「まあ、最初から全部をお前に任せるつもりはない。慣れない手入れは俺がやろう」
「よかった、それならなんとかなりそう」
「じゃあ、外の方を明日から任せることにするか」
 レオナルドは小さく笑って上を見上げた。ガラス張りの天井に、高くなってきた太陽が透けて見える。
「そろそろ朝飯にするか。その後に洗濯だな」
「朝から重労働ね」
「生活するって、そういうことだろう? まあ、今日は大物の洗濯は無いから安心しろ」
「大物がある日も、あるってことね」
「ま、いずれな」
 そう言って淡く微笑むと、レオナルドは温室の扉を開けた。



 ふたりがダイニングで簡単な朝食を済ませていると、店の方からドアをノックする音がした。今日のメニューはスクランブルエッグと、庭から摘んできた野菜のサラダと、少し堅くなったパンだ。
「こんな朝っぱらから誰だ」
 レオナルドが不機嫌そうに、店の方に向かっていった。
 しばらくして、レオナルドがドアを開けたらしい音に続き「レオー、おはよーっ」と言う声と、どさっと倒れる音がした。
 アリエルも様子をうかがいに行くと、案の定クララがレオナルドを押し倒していた。
 レオナルドがクララの下から抜け出そうと、全身でもがいている。
「今の俺に、それを受け止める力はありません! 悪ふざけも大概にしてください!」
 どうにか抜け出すのに成功すると、ふーっと猫が威嚇するように身構える。クララはレオナルドに威嚇されても、意に介さないようにふふっと笑っただけだった。店の奥の扉から顔を出すアリエルに気づくと、可憐な笑顔を咲かせて手を振った。
「アリエルちゃんもおはよう。レオに変なことされなかった?」
「してねーよっ!」
 レオナルドは顔を真っ赤にして、即座にバンッと床を叩いた。
「クララ、おはよう。えっと、朝早いのね」
 アリエルはどう反応したものかと逡巡し、目を泳がせた。部屋の時計が九時少し前を示しているのが目に入る。そこまで朝早くはなかった。
 アリエルはしまったと思ったが、クララは特に気にした様子もなく立ち上がり、レオナルドを放ったまま、つかつかとアリエルに近づいてきた。
「そう! これを早くアリエルちゃんに届けようと思って」
 ぴたりとカウンターの手前で立ち止まると、鞄から一枚の紙を取り出しカウンターに置いた。
 アリエルは紙に目を落とした。名前や年齢、職などを書き込むところがある。
「これは?」
「五時通り工房ギルドの加入申請書よ。これに入っておけばレオが何かやらかしちゃってもアリエルちゃんが無職になっちゃうことがなくなるし、万が一病気や怪我しちゃった時に病院によっては職人割引をしてもらえるし、おまけに同じ通りのご近所さんとも仲良くなれるわ。良いことずくめよ! もちろんレオも入っているはずよ」
 田舎でいうと労働組合と町内会が合体したようなものだろうか。
 レオナルドの方を見れば、心なしかぐったりした面持ちでソファに身を投げていた。
「ああ、何かやらかす予定は無いが、入っておいて損はないと俺も思う。というか、妙に早く来たと思ったら、そういうことですか……」
 若干面白くなさそうな顔でぶちぶち言っているが、レオナルドも異論はないようだ。アリエルはカウンターの引き出しからペンを取り出し、記入し始めた。
「それは入っておいた方が良さそうね。『職業』って何て書けばいいの?」
 カリカリと、書類の枠を埋めていく。
「アリエルちゃんの場合は『薬師見習い』が妥当かしら」
「ふんふん。住所はここでいいのよね? ……番地が分からないわ」
「『薬屋レオナルド』で十分よ。分かればいいんだから」
 厳密に書かなくてもかまわないようだ。
 最後に氏名の欄に『アリエル・エイプリル』と記入して、書き損じがないかをチェックする。
 クララがカウンターの反対側から覗き込んで、ふんふんと不備がないかチェックしてくれる。
「そういえば、昨日は聞きそびれちゃったんだけど、アリエルちゃん。貴女、ファミリーネームがあるの?」
 アリエルはうっかりしていた。この国では、庶民は名前を聞かれたら文字通り名前だけを名乗るのが一般的だ。そもそもファミリーネームを持つのは貴族だけである。
「あ、エイプリルは母さんの名前なの。うちの田舎だと、名前にあんまりバリエーションが無いって言うか、とにかく同じ名前の人がやたら多いのよね。それで、どこの誰なのか区別できるように女の子はお母さんの名前を自分の名前の後ろに付けて言う風習があるの。むしろそれが無いと余所者って思われる感じだったから、付けて言うのが癖になっていたわ」
「変わった風習ね。んー、北部の方にそういうところがあったかなー? ま、そうよねー。エイプリルっていう家名、聞いたことないもの」
 ふんふん、とクララがうなずく。
「事情を説明すればいいかもしれないけれど、たぶん面倒くさいことになっちゃうから、お母様には申し訳ないけれど『エイプリル』は消しておいた方が良いと思うわ」
 クララはカウンターを回り込んでアリエルの隣にくると、「ちょっと失礼」とおもむろにカウンター下の引き出しを開けた。何かを探す素振りを見せた後、透明な液の入った小瓶を取り出す。
「はい、これインク消し」
「インクって消えるの!?」
 目をまん丸にするアリエルに、ふふっとどこか満足げに微笑むと、クララはインク消しの液をガーゼに浸した。
「これで軽くトントンと叩くとびっくりするくらい綺麗に消えるわよ」
 みるみる文字が消えていく。
「すごい……何これ」
「レオ特性インク消しの魔法薬よ」
「さすが師匠……」
 当のレオナルドはソファに半分埋まりつつ、面白くなさそうに顔をしかめていた。
「準備できたわね。それじゃ、さっそく提出しに行きましょう!」
 クララは跳ねるように扉の方を向いた。
 それをレオナルドがはっとして制止する。
「待ってください、俺もアリエルも朝食の途中です」
「あら、そうだったの。それは悪いことをしちゃったわね。じゃあ、ここで待っているから早く済ませてきちゃいなさいな」
 クララは可愛らしく微笑むと、ソファにすとんと腰掛けた。
 二人はダイニングに戻るとは急いで朝食を掻き込み、とりあえず皿を流し台に突っ込んだ。
「クララ様をお待たせするわけにはいかないからな。とりあえず水に浸けておいて、帰ってきたら洗おう。洗濯も、まあ明日二日分まとめてすればいいだろう」
 レオナルドの朝の予定とは大きくずれてしまったようだが、仕方が無いといったように彼は物置から外套を取りに行った。
 アリエル達が店に戻ると、ぼんやりと外を眺めていたらしいクララがこちらを向く。
「準備はできた? それじゃ、行きましょう!」
うきうきといった様子のクララに先導されるように、三人は揃って五時通りに出た。